知らないからこそ、守られている幸せがあるように思える。
一方で、知ることで得られる幸せがあるように思える。
どちらの方が幸せなのだろうか。
例えば、一人の女の子について深く関わらず、利害の一致だけを追及するのはそれはそれで心地がいい。
一方で、その人のことを深く知ることで、得られる分かり合える幸せもある。
例えば、自分の実力のなさを知らないお山の大将であることは、そのままでいれば楽しい時間も多いだろう。
一方で、より広い世界に飛び出して挑戦することで、ひしひしと感じる面白さもある。
そのままでいいよ、というセロトニンと、何が起きるのだろう、というドーパミン。
どうしたら、この人生がちょうどいいぐらいに幸せになるのか、最近難しいなと思う。
常に挑戦がある人生を望んでいる自分もいるし、一方でゆるぎない暖かさを求めている自分もいる。
どうも難しい。この毎日。
勉強をしていて、たどり着いた一つの生きる方法として、自己の対象化ができるようになったと思う。自分が目的物になったのだ。
対象になった自分に感じるのは、自分の心がどう反応するのかをよく感じるようになったところにある。
自分の心がぱあっと明るくなるのか、それともどよーんとするのか。
それだけだなーとかえって最近思うようになった。
心に嘘をつくことが減った。
その他の残りは、運命に身を任せたいなと思うのだ。