第120問 変わらない自分

最近、去年参加させてもらっていたゼミの飲み会に参加してきた。

そこで、自分のことを少し知っている後輩に言われてハッとしたことがある。

自分は、ロースクールで素直に感じていることを素直に話した。

価値観が凝り固まっていること、なにかを押し付けられているように感じること、安心できる場所はあまりないこと。

そういう嘘のない感情としてネガティブなことをいう自分が、自分らしくない、と言われてしまったのだ。

 

ああ、人は環境や周囲の人に影響を多かれ少なかれ受けてしまうんだな、と悲しく思った。

これでも自分はロースクールではかなりポジティブで、些細なことに幸せを見出して生きているタイプなのだ。

あんまり細かいことにこだわりすぎず、ナチュラルに気持ちのいい時間を過ごせるように努力しているつもりだった。

 

それでも、だった。

たしかに冷静になってみると、ロースクールの人たちはネガティブな人がとても多い。

なにかへの不満、愚痴、人の悪口、噂、そういうものばかり口にしていて、付き合っていて気持ちのいいヤツみたいな人が、とても少ない。

結局、みんな本当に弁護士になりたいわけではないのだなといつも話していて思う。自分に自信がなくて、すがるように弁護士という仕事の持っているある種の安定性にすがっているのだ。

自分はなぜ弁護士に?、という話を振られて、いつも人を幸せにしたいという話をする。本当に思っていることだから。

でも、いつもみんなに驚かれてしまう。

昔の自分なら、いい人間として生きていられているんだな、とそういうときにどこか逆に嬉しくなる、なんてこともよくあった。

最近はそうでもない。強く寂しく感じることが多い。

そういう自分をリスペクトしてくれる余裕のようなものも、今はないんだろうなと思う。他人への尊敬って、難しいかな、意外に人生にゆとりを持っていないと持つことができないのかもしれない。

 

あとは多くの人がSNSに依存しているのもあるのかもしれない。

SNSでは、最近エセというと言いすぎかもしれないけれど、ぶったリアリズムが横行しているように思う。

人間はこんなもんなんだ、これが現実なんだ、と、人を裏切ったり、大切にしないで自分中心に生きる道こそがリアルなんだ、みたいな考え方に触れ合うことが多い。

多分それは、人に優しくできない人が人に優しくできないから優しくされていないだけの話を、人間は本質的に冷たい生き物なのだと決めつけている、というそれだけの話なのだと思う。

自分が人に与えられているものが少なすぎるから、そうなるのかもしれないよ、と僕は思う。

 

こういう場所にいつまでもいてはいけないな、と思った。

この戦いは、早く終わらせないといけない。

 

でもこの場所で感じていることは、自分の人生のエナジーにしたい。

どれだけ「勉強」をしていても、人間はもっといい人間として生きていきたいという気持ちを見失うと、どれほど良い家庭に生まれて、どれだけ金銭的に豊かでも、辛い人生を歩むことになってしまうのだと、忘れずにいたい。

 

なにがあっても自分は自分を見失わずに生きていきます。

自分が生きることで、誰かの涙を拭い、一瞬でも笑顔の時間が増えるなら、それが本当に自分にとっての幸せだと思うから。