第142問 晴れ間

やっと家の停電が終わってストレスから少し解放された。

できあがっていた勉強や生活のルーティンを邪魔されるのはかなりストレスだった。

人に自慢できるほど規則正しい生活をしているわけではないけれど、自分なりのメリハリをつけた生活をしていたから、そういう緩急を絞る上での前提になる生活様式がずらされるのが堪らなくしんどかった。

 

こういう時、なるほどと思わされるのは、同居している家族は僕の精神的不調に全くといっていいほど気づかないのだ。

親の関心の中心は私の健康とか好調ではないようなのだ。

我が子が世間的に高い評価を受けることには強く関心があるようだが、もはやそのプロセスに対してはあまりという感じ。

 

かなり外発的動機で動くタイプだから、私からの影響が何かがおそらく肝要で、私が不調で塞ぎ込んだり、疲れてエネルギッシュさを失っていても、自己に直接及ぼされる影響の程度としては大きな問題に思えないのだろう。

 

多かれ少なかれあと数年で家を出ることになろうけれど、親と自分はかなり人間としては違うタイプだなとこういうときに思わされ、なぜ一緒に住めているのかさっぱり分からなくなるときがたまにある。

 

昨日は人生初めてを経験した日だった。

というとどこかロマンティックに聞こえるけれど、なんのこともない二つの説明会を同時にオンラインで聞くという荒業に出た。

外資の大きい事務所と、大手を独立した先生が作った新進気鋭の事務所。

一緒に聞いていると自分の関心の強さが分かるもので、自分は外資の事務所にどうやら惹かれていた。

同時に色の違う大きめの付箋にメモをしていって、最後にメモした付箋の量を比べるとまるで違った。

落ち着いているというか、大きい規模という意味とは少し違う意味で風格のあるところが自分は好きみたいだ。

重心が下にある感じというか。

説明会が終わって、聖徳太子が10人の話を同時に聞いたというけれど、その凄さと嘘っぽさを同時に感じた。

 

書いてみると、かなりの心の工数を色々なことにかけているんだなと思う。

ずっと勉強のことを頭におきながらよくやっているものだ。

ディスアドバンテージは本当に自分の意思と関係なく発生するのだなと思う。

それはそれとして、結局今日もやっていこう、と行きの車内で思った。

 

電気が付いた私の部屋、曇り続きの日々の今日の晴れ間。